遠藤航の離脱は、衝撃的なニュースだった。そして追加招集が町野修斗だと発表された瞬間から、SNSではおなじみの議論が再燃した。「FWは足りているのに、なぜ町野だ」「守田英正を呼ぶべきだ」「そもそも長友佑都の枠を空ければいい」。
その気持ちは理解できる。ただ、この議論を眺めていて、どこか違和感があった。誰もが、試合の話しかしていないのだ。
ここで一度、冷静に計算してみたい。W杯の試合は1試合およそ2時間。仮に5試合戦ったとしても、合計でわずか10時間だ。一方で、チームが勝ち進めば、選手たちは2ヶ月近くを共に過ごす。食事、ミーティング、移動、そして何もない自由時間。時間で測れば、試合はチーム活動の1%にも満たない。サッカーは、その99%がピッチの外で成り立っているスポーツなのだ。
プロのピッチに立った選手たちの言葉は、しばしば同じ結論を示唆する。チームに1人でも気を使う相手がいると一体感は生まれない。雰囲気が悪ければ、試合前に声を張り上げることすら難しくなる。11人は能力だけで選ばれるわけではない。「この人がいるとチームが明るくなる」「この人のためなら走れる」という選手が、時に優先される。心の状態がプレーに直結するという感覚は、プロの世界で確かに存在する。そして、部活動や社会人チームで本気でスポーツに取り組んだ経験のある読者の多くも、きっとこの感覚を知っているはずだ。プロとアマを比べるな、という意見もあるだろう。だがこれは技術論ではない。あらゆる人間の集団に起こりうる力学の話だ。
この視点に立てば、町野の追加招集も理解しやすくなる。彼の明るく前向きな性格は、途中合流という難しい立場でもチームに溶け込む助けになるだろう。攻撃の選択肢を増やすという戦術的な理由もあるが、最終的にはバランス感覚が重視されたのかもしれない。
同じことは、長友佑都を巡る議論にも当てはまる。誤解のないように言えば、彼はお飾りの選手ではない。4度のW杯を戦い抜いたベテランであり、誰よりもピッチに立つことを考えているはずだ。その上で、試合以外の貢献度が、彼が選ばれ続ける大きな理由の一つであることは想像に難くない。事実、引退した選手たちは解説の場で口を揃えて「長友は絶対にいた方がいい」と語る。ピッチに立った者ほど、ピッチ外の価値を知っているのだ。思えば日本代表には、2002年の秋田豊、南アフリカの川口能活、カタールの川島永嗣と、常にチームを支えるベテランがいた。そして各時代の選手たちは「彼らがいてくれて本当によかった」と振り返る。
今大会のレギュレーションも、この点を後押しする。長らく23人だったW杯の登録メンバーは、カタール大会で26人に拡大され、今大会もそれが続く。前回大会ですら、一度もピッチに立てなかった選手がいた。中4日、5日と試合間隔が空く今大会では、大幅なローテーションの必要性も低い。今回も、出番なく大会を終える選手が必ず出てくる。出場機会がなくても腐らず、チームに良い影響を与え続けられる選手の重要性は、これまで以上に高いのだ。
もちろん、反論にも一理ある。選ばれなかった選手たちは、誰もが死に物狂いで努力している。「能力で落ちたわけじゃない。その枠があるなら俺を選んでくれ」と思う選手は必ずいる。「精神面はプロとして各自が整えるべきで、選考は実力本位であるべきだ」という批判や、「今の日本代表は成熟しており、精神的支柱は不要だ」という見方もあるだろう。どれも正論だ。ここに絶対的な正解はなく、守田が劣っているという話では全くない。
それでも、こう考えてみたい。戦いの世界には古くから「勝敗は戦う前に決まっている」という言葉がある。実力は、その舞台に立つための最低条件だ。しかし、その実力を本番で発揮できるかどうかは、試合に至るまでの過程で大方が決まる。森保一監督が重んじているのは、まさにそこではないか。チームの一体感は試合中には作れない。試合と試合の間の時間で作るものなのだ。
これまでの継続性も無視できない。例えば佐野航大は素晴らしい選手だが、この4年間の活動にほとんど関わっていない選手を土壇場で加えれば、チームの流れを乱すリスクがある。佐野が劣るという意味ではなく、これまで共に歩んできた小川航基や町野のような選手を尊重することには、合理性があるということだ。チームの「今」の空気は、瞬間的な能力比較では測れない、複雑な要素の積み重ねでできている。
このコラムで伝えたいことは、いたってシンプルだ。試合はもちろん大事だ。しかし、試合以外の時間のほうが、もっと重要かもしれない。「あの選手を入れろ、この選手は不要だ」という議論を楽しみつつ、その裏で森保監督が、私たちの想像をはるかに超えて「99%」の部分で悩み抜いていることに、少しだけ思いを馳せてみてはどうだろう。そうすれば、これからの2ヶ月の見方が、少し変わってくるかもしれない。



